菅浦
琵琶湖の北側に菅浦(滋賀県長浜市)という集落があります。縄文時代より人が住んでいたと言われています。菅浦はもともとは大浦荘(荘とは貴族や寺社の私有地)の一部でしたが鎌倉時代に独立を始めます。独立の際、食料と年貢を納めるために田畑が必要でした。菅浦は入り江にある小さな集落で田畑を開墾する面積はほとんどないため菅浦の北西にある日指(ひさし)と諸河(もろかわ)という地区を奪い取ろうと試みます。その後150年間、菅浦と大浦は争い続け、とうとう1446年に室町幕府が日指と諸河を菅浦のものとすることを認め、決着がつきました。菅浦の人々は、京の朝廷や大津の日吉神社や竹生島などに年貢を納めることで、琵琶湖を自由に行き来し漁もでき、争いごとがあった時は助けてもらっていました。
朝廷や寺社は年貢を取るだけで、菅浦の人々の暮らしには介入しませんでした。生活する上での決まりは自分たちで決め、決まり事を破ったり罪を犯した村人には罰を与えることもあったそうです。他の村との争いが起きた場合は団結して戦いました。菅浦のように、裁判所や警察署の役割を持ち、共有の財産を持つ村を「惣村(そうそん)」と言います。
航空写真は1960年と2005年のものです。凹んだ入り江の部分が菅浦です。(国土地理院の空中写真より)集落は険しい山に囲まれた小さな扇状地に形成され、一方は海に面しています。1966年に大浦までを結ぶ道路が開通するまでは水運主体の集落でした。
琵琶湖は多くの恵みをもたらすと同時に暮らしを脅かす存在でもあります。菅浦の沖合は湖底が急に浅くなっているため台風の時などは高波の被害に遭いやすい地形です。そのため岸に石積みを築きました。集落はその石積みの上にあります。
1960年頃にはヤンマーディーゼルの作業場が誘致され、個人の庭先に建てられました。当時は菅浦に作業場が20箇所あったそうですが、確認できたのは10箇所もない程度でした。今でも稼働をしている様子でした。2015年5月18日 菅浦にて